数々の詐欺と殺人に手を染めた男シャルル・ソブラジと、その捜査の様子を描く実話から着想を得た物語「ザ・サーペント」(原題:The Serpent)が、2021年4月2日よりNetflixで配信される。
本作は、ソブラジが長年にわたりアジア各地で法の目を逃れ、いわゆる“ヒッピー・トレイル”を訪れた旅行者らを次々と薬漬けにし強盗や殺害を繰り返していた犯行や、彼に法の裁きを下すべく行われた執念の追跡捜査を描いた、クライム・サスペンスドラマだ。全8話の構成で内容は実話に基づいているが、作中のセリフはすべてフィクションである。
ちなみに、この連続殺人鬼は次々と捜査網をすり抜け蛇のような逃亡劇を繰り広げていたことから『The Serpent(=蛇)』という異名で知られるようになった。
ソブラジは、1975年に2人の観光客を殺害した罪で現在はネパールの刑務所で終身刑を受けている。しかし、彼が犯したとされる多くの殺人事件はいまだに解決されていない…。
運命を変えた一通の手紙
1976年、バンコクはまだ現在のように高層ビルが立ち並ぶ大都市ではなかった。地下鉄やスカイトレインは整備されず、常夏の国タイで交通量の多い街を移動するには何時間もかかる時代であった。今日のように手軽にコミュニケーションがとれない、スマートフォンもソーシャルメディアもない世界。旅行者が行方不明になっても、数週間あるいは数ヶ月間発見されないこともあったという。
その年の2月6日、バンコクのオランダ大使館で下級外交官として働く、この物語のもうひとりの主人公ヘルマン・クニッペンバーグ氏がまさにそのような状況下で2人のオランダ人バックパッカーについての手紙を受け取った。クニッペンバーグはこの一連の犯罪捜査に意図せず足を踏み入れた人物のひとり。米CNNのインタビューで、当時の経緯や複雑に絡み合う事件の状況について語った。
その手紙の送り主はオランダに住む男性からで、行方不明になった義理の妹とそのボーイフレンドを探しているという内容だった。ヘンリクス・ビンタニャとコーネリア・ヘムカーの2人は “熱心な文通相手”で、アジアを旅しながら週に2回家族に手紙を出していた、と手紙の主は語った。しかし、ある日を境に連絡は途絶えたのだった。
当時31歳だったクニッペンバーグは、『非常に奇妙なことだと思った。』と振り返る。
手紙を受け取る数週間前、バンコクの北80キロに位置するアユタヤ近郊の道端で黒焦げの2人の遺体が発見されていた。当初、オーストラリア人のバックパッカーが行方不明になったと報道されていたが、その後カップルは生存していることが判明した。
クニッペンバーグはこの遺体が手紙に書かれていたオランダ人カップルではないかと考え、バンコク在住のオランダ人歯科医を動員し、警察の死体安置所で行方不明になったカップルの歯型をもとに焼死体の鑑定をすることにした。その結果、歯型が一致していることが分かった。
クニッペンバーグは、この切断された死体のことを考えながら数週間前に友人のベルギー大使館事務次官ポール・シーモンズから聞いた奇妙な話を思い出していた。
それはフランス人の宝石商アラン・ゴーティエという人物が、バンコクのアパートで行方不明者のパスポートを大量に集めているという垂れ込みについてだった。そのうち2冊はオランダ国籍のものだったという。しかしその時のシーモンズは頑なに情報源を明かさなかったため、あまりにも荒唐無稽な話であるとクニッペンバーグは思ったそうだ。『友人はおかしくなってしまった…』
しかし、後に二人はアラン・ゴーティエはソブラジが使っていた偽名の一つであることを知ることになる。
バンコクで宝石商を装って逃亡していたこの男は、何年にもわたり旅行者と親しくなり薬物を飲ませ、窃盗を繰り返していたのだ。
国境警備が緩い時代、彼はしばしば被害者にもなりすまし、盗んだパスポートを使ってアジアをジグザグに移動していたことが確認されている。
サーペントを追う
死体安置所に行った翌日、宝石商の情報源について問い詰められたシーモンズは、フランス人女性のナディーン・ギレスという名を打ち明けた。彼女はソブラジと同じアパートに住み顧客を紹介する仲介人だった。
ギレスの証言は、ソブラジに雇われていた人物が行方不明者のパスポートを発見し、ソブラジに殺害されたのではないかと思い恐れて逃げ出したというものだった。そして、オランダ人カップルがソブラジ宅に来たことも自供している。
クニッペンバーグはタイ当局に通報し、独自の調査を続けたのだった。
1976年3月11日の朝、ギレスはクニッペンバーグにある情報を提供した。ソブラジとその恋人のマリー=アンドレ・ルクレール(通称モニク)が、しばらくヨーロッパへ行くというものだった。クニッペンバーグは急いで警察に通報すると、その日の夜、ソブラジをアパートで取り押さえることに成功した。
しかしこの話には続きがある。ジャーナリストのリチャード・ネヴィルとジュリー・クラークが執筆したソブラジの伝記本『The Life and Crimes of Charles Sobhraj』によると、あの後ソブラジは尋問を受けたが、被害者から盗んだパスポートに自分の写真を貼り付け、アメリカ市民であると主張し釈放されたのだ。犯人にとっては想定内の出来事であり一枚上手だったというところか…。
翌日の夜、動揺したギレスはクニッペンバーグに電話をかけてきた。ソブラジの同居人で共犯者と思われる人物が、『話がある』と言い彼女をアパート呼び出したのだ。クニッペンバーグは悩んだ。ギレスが行けば命が危険にさらされることは間違いないだろう。一方で彼女が行かなければ襲撃に関与していると、疑いの目を向けるかもしれない。『私の人生の中で最も辛い瞬間の一つでした』とクニッペンバーグは語る。しばらくして彼女に電話をかけた。『本当に申し訳ない。行ってください』
この協力のおかげで、ギレスはソブラジの目を盗み 何枚かのパスポートをブラジャーの中に忍ばせ、被害者の一人に関する情報を入手することができた。
翌朝ソブラジとルクレールはタイからマレーシアに向かったが、“サーペント” と呼ばれるこの男はまたしても警戒網をすり抜けたのだった。
ソブラジのライフ・オブ・クライム
1944年、フランス統治下のサイゴンでベトナム人の母とインド人の父の間に生まれたソブラジは、困難な幼少期を過ごした。生まれて数年後に両親は離婚。この時父親に拒絶されていたと伝記本には記されている。
その後、母親はフランス人兵士と結婚し一家はフランスに移住した。10代のソブラジは、まだ犯罪に手を染める前で生活に慣れようと必死だった。
ソブラジに出会った人たちは口を揃えて“ハンサムで魅力的な詐欺師”と言い、複数の女性と付き合っていたという一貫したイメージを持っている。ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェを敬愛し、武術の達人であるとも言われていた。
1963年にパリで強盗の罪で投獄された後も、複数の国で犯罪と脱獄を繰り返してきたソブラジは、その過程で多くの共犯者を募った。中には旅行者も犯行に加わっていたという。
やがて犯罪 “ファミリー” なる組織を形成していたことから、一部のメディアでは彼を『アジアのチャールズ・マンソン』と呼んだ。
●1944
ベトナムのサイゴンに生まれる
●1963
フランス・パリで強盗の罪で投獄される。3年間服役
●1969
車の窃盗と警察からの逃走の罪でフランスの刑務所に戻る
●1972
最初の犠牲者と言われるタクシー運転手がパキスタンで殺害される。その後、アフガニスタンにて強盗の罪で投獄されるが看守に薬を飲ませ逃亡。その後イランで逮捕され12ヶ月の刑期を宣告される
●1973
武装強盗の罪でインドのニューデリーに収監される。病気を装って脱獄
●1975
強盗の罪でギリシャのアテネに収監されるが、刑務所の車に火をつけて逃走。タイで少なくとも6人、ネパールで2人を殺害したとされる
●1976
インドで2人を殺害したとされる。強盗殺人容疑でニューデリーで逮捕される
1976年7月逮捕時のソブラジ
●1977
インドのティハール刑務所で懲役12年の判決を受ける
●1986
看守に薬を飲ませティハール刑務所を脱走。ゴアで逮捕され刑期が延長される
●1997
ティハール刑務所から釈放され、フランスに帰国
●2004
1975年の殺人容疑でネパールに終身刑で収監される
●2014
1975年の殺人容疑で2度目の有罪判決を受ける
[Source] ‘The Life and Crimes of Charles Sobhraj’ by Richard Neville and Julie Clarke, Reuters
ヒッピー・トレイルでの殺人
ソブラジの伝記によれば、1972年から1976年の間に少なくとも12件の殺人を認めている。取材では他の殺人もほのめかしたが、裁判を控えていたため自白は撤回された。
被害者の中には薬物強要や過剰摂取で死亡した人や、溺れ死んだ人など、遺体は見分けがつかないほど焼損し道端に捨てられていたという。実際の被害者数は現在も不明で、殺人事件として有罪判決が出たのは2件だけである。
ソブラジが最初に告白した殺人は、1972年のパキスタン人タクシー運転手だった。その後、犯行が急増したのは1975年のタイに滞在中のことである。ソブラジと共犯者によって、アメリカ人観光客、トルコ人男性、フランス人2人、オランダ人カップルの少なくとも6人が犠牲となったことが確認されている。
その年、パタヤビーチで水着姿のアメリカ人女性の死体が発見されたことから、“ビキニ・キラー”という別称で呼ばれるようになった。
ソブラジの潜伏先
ソブラジの逃亡によりタイ警察の対応に不満を募らせたオランダ政府関係者は、外交官のクニッペンバーグへ怒りの矛先を向けた。対応に追われる一方で、連日のように事件の捜査を続けていることを知ったオランダ大使は、3週間の休暇を取るように命じた。休暇に入る前に、クニッペンバーグは妻のアンジェラと一緒に事件に関する資料をまとめ、『クニッペンバーグ・キャッシュ』と称したデータを、バンコクにある各国の大使館に置いていった。
休暇から戻ったクニッペンバーグは、さっそくカナダ大使からの電話を受けた。カナダの警察が恋人とされるルクレールの両親を訪ねたところ、娘は彼氏と旅行中であること、そしてフランスのマルセイユ近くに緊急連絡先を残していたことを証言した。その連絡先とはソブラジの母親のものであった。
そして情報提供者のギレスからも連絡が入った。なんでもソブラジの住むアパートの大家が、彼の所持品を処分すると警告を言い渡しているとのこと。重要な証拠が失われることを懸念したクニッペンバーグは、チームを招集しアパートに乗り込んだ。
『怪しげで不潔な場所だった』とクニッペンバーグは振り返る。部屋には、5キロの薬物や緩下剤、拘束服などが見つかり、オランダ人のヘムカーが着用していたコートとハンドバッグも発見された。
1976年5月5日、オランダ大使はクニッペンバーグにこの話を報道機関に伝えるよう指示した。数日後バンコク・ポスト紙に “死の巣”という見出しの記事が一面に掲載されたのだった。
これにはタイ政府も注目し、インターポール(国際刑事警察機構)へ要請をかけ各国警察に注意を促した。クニッペンバーグによると、1976年7月5日にインドでソブラジが拘束されたのはこの通報がきっかけだったという。
ソブラジの獄中生活
ティハール刑務所に12年の刑期で収監されたソブラジにとって獄中生活は悪いことばかりではなかったようだ。刑務所の元管理/法務官のスニール・グプタ氏は、『囚人はそれぞれの懲罰にいるものだが、彼は自由に歩き回っていた』と特権を享受していたことを明かしている。好みの食事や、通常の受刑者には与えられない夫婦の面会に至るまで…。
グプタは、回顧録『Black Warrant: Confessions of a Tihar jailer』の著者でもある。この本では、30年以上ティハール刑務所に勤務した体験談が綴られており、ソブラジが裕福な受刑者相手に裁判の嘆願書を作成して金を稼いだり、看守に賄賂を渡し地位を維持していたことが赤裸々に描かれている。遂には、刑務所の高官が汚職に関与していることを示唆する音声を秘密裏に録音していたことも明らかになった。『誰もが彼を恐れていた』とグプタは言う。
脱獄の手口
1986年3月17日、ソブラジは刑務所にいながら大掛かりな詐欺を働いた。
この日グプタは自宅で映画鑑賞中だったという。すると突如ソブラジが脱獄したというニュース速報が流れてきた。慌てて刑務所に駆けつけると、目に飛び込んできたのは看守が全員眠りについている衝撃的な光景だった。
ソブラジは自分の誕生日を口実に、鎮静剤入りのお菓子を看守に配り脱獄を図ったのだ。
釈放まで残り数週間だったにもかかわらず実行に移した今回の脱獄。グプタによると、1975年の殺人事件で死刑判決を受けているタイに送還されることを懸念したものと推測している。
ひとつの大きな疑問
ソブラジはこれまで、殺人を犯した理由について言及してこなかった。
バンコクを拠点とするジャーナリストのアラン・ドーソンは1984年の取材で、開口一番『なぜ?』と問いただそうだが、『彼は良い答えを持っていなかった』と結論づけた。『“我々”が記事を書くなら、その答えは白人たちがアヘン密売でアジアを堕落させ、破滅させたということになるだろうと言っていた。だから今いる白人はそのために死ぬべきだ、というのが彼の主張だった』と答えている。
一方でジャーナリストのリチャード・ネヴィルは、『ソブラジは植民地主義の時代を生きた子供で、カウンター・カルチャー(対抗文化)に復讐するという粗野な理論を持っていた。』と分析する。『私は善人を殺したことはない』と主張するソブラジは、精神分析、グローバル・ポリティクス(国際政治)、仏教などを引用して、自分の犯罪を正当化していたと述べている。
『自分の人生はフランスの法制度への抗議であるとか、ベトナムやアジアへの愛が犯罪の動機になっている、という彼の主張は馬鹿げているが、心理操作の道具としては非常に効果的だった』とネヴィルは語っている。
さらに、殺人者の特徴についてソブラジに尋ねると『感情が強すぎて自分をコントロールできないのか、それとも感情がないのか。この2つのうちのどちらかだろう』と答えたという。しかし自分がそのどちらに当てはまるかは口をつぐんだという。
元看守のグプタは『いつも自分にスポットライトを浴びることを望んでいた』と語る。中でも、1997年に21年の刑期を終え釈放されたソブラジが、自伝の映画や本の権利を1500万ドルでフランスのプロデューサーに売ったことは有名な話だ。結局映画は作られなかったが、BBCをはじめとする世界中のメディアで報道され存在感を放ったことは明らかだ。
ソブラジについての書籍や多くのテレビ番組があるにもかかわらず、『恐ろしく残忍な殺人の真の動機は未だ解明されてない』とドーソンは訴えている。『35年以上経った今でも(本当の手掛かりは)ない』と。
決して終わりではない
2003年9月13日、ソブラジは1975年に起きたアメリカ人観光客コニー・ジョー・ブロンジッチ殺害事件の容疑者として、ネパールの首都カトマンズで逮捕された。2004年8月に終身刑の判決を受けたが、彼は無実を主張した。
2014年、ネパールの裁判所は1975年にカナダ人観光客ローラン・カリエールを殺害した容疑で、ソブラジに有罪判決を下し20年の刑期を宣告した。
ネパールの裁判所関係者によると、この事件はソブラジが高齢を理由に早期釈放を訴えるのではないかと検察が懸念し2013年に再審理されたものである。
獄中でもソブラジは常に周囲の注目を集める存在であった。2008年、当時64歳だったソブラジは20歳の弁護士ニヒタ・ビスワスと結婚した。彼女はソブラジの通訳を務めていたことで知られていた。ビスワスは、同年のTimes of Indiaのインタビューで、『彼は無実です』と主張し『彼にとって不利な証拠は何もない』と答えている。
ある意味では、この事件はすでに決着がついている。現在ソブラジ(76歳)は終身刑に服している。共犯者の多くは行方不明、あるいは死亡しているだろう。
同じく76歳のクニッペンバーグは人生の半分を費やしたこの事件を振り返り、不正行為を自分の目で見たからこそ感じるものがあると言う。『何の罪もない人々が命を落としているのに、誰も指一本触れないという状況に直面したのです。私はそれを民主主義の完全な失敗だと思った』
事件に執着するあまり、仕事仲間からはちょっとした変わり者と見られることもあったようだ。しかし、Netflix「ザ・サーペント」で描かれるクニッペンバーグは、ヒーローとして扱われている。自分が提供した情報が、2つの国でソブラジの逮捕に役立ったことを認めつつも、自身をヒーローだと思ったことはないと言う。
『ここにヒーローはいないと思っている。才能を持った人間が誤った使い方をした悲劇だ』
あの運命的な手紙から45年以上経った今、クニッペンバーグは『明日ネパール政府がソブラジを釈放すると決定を下しても驚かないよ』と冗談交じりに語っている。
[Source/Picture]edition.cnn.com
■作品情報
1970年代、東南アジアのヒッピートレイルを訪れた旅行者らを次々と殺害した冷酷な殺人鬼シャルル・ソブラジ。衝撃の実話から着想を得た、BBC OneとNetflixの共同製作のリミテッドシリーズは2021年4月2日より配信開始!
作品ページ・予告編は▶︎こちらから
■登場人物/キャスト
連続殺人事件の主要容疑者と事件の真相に迫る捜査関係者たち
シャルル・ソブラジ役 蛇の異名を持つ連続殺人鬼 タハール・ラヒム 出演作:『預言者』『ある過去の行方』『倒壊する巨塔』 | マリー・アンドレ・ルクレール役 ソブラジの恋人 ジェナ・コールマン 出演作:『ヴィクトリア』『ドクター・フー』 |
ヘルマン・クニッペンバーグ役 オランダ大使館で働く外交官 ビリー・ハウル 出演作:『ダンケルク』『アウトロー・キング』 | アンジェラ・クニッペンバーグ役 ヘルマンの妻 エリー・バンバー 出演作:『ノクターナル・アニマルズ』『高慢と偏見とゾンビ』 |
アジェイ・チョウドゥリー役 ソブラジの右腕 アメシュ・エディレウィーラ 出演作:『Shakespeare Live: The Tempest』 | ポール・シーモンズ役 ベルギー大使館事務次官 ティム・マキナニー 出演作:『ノッティングヒルの恋人』『ゲーム・オブ・スローンズ』 |
■スタッフ
- 監督:トム・シャンクランド、ハンス・ヘルボッツ
- 脚本:リチャード・ワーロウ、トビー・フィンリー
- プロデューサー:スティーヴン・スモールウッド
- 製作総指揮:リチャード・ワーロウ、トム・シャンクランド、プリーシ・マバハリ (マンモス・スクリーン)、ダミアン・ティマー (マンモス・スクリーン)
- プロデュース:マンモス・スクリーン社